目下のところと言うか、最大の悩みが「バチさばき」である。
三味線を始めて20年以上にもなるが、バチの動きというか、使い方が分からず、ずっと悩み続けてきた。
20年もやっていて分からないのだから、おそらく今後も永遠に分からないだろうと思う。
感性の優れた人なら、たとえ眼が見えなくても見事なバチさばきをみせている人も数多くいる。その代表者が、故高橋竹山だろう。
ところが私は、直ぐに頭で考えてしまう。「えぇっと、太鼓がこうで、糸がこう並んでいて、バチはこういう風に打つ……」と言う具合である。
理屈で納得できないと前に進めないタイプなのだ。
熱中するあまり、知らぬ間に頭を深々と下げて、バチの手元を覗き込んでいる自分に気づき我ながらおかしくなる。
「こんなこと眼が見えれば何でもないのに……」と時々思う。実際のところ晴眼者では、私のようにバチの動きで悩む人は、ほとんどいないと思う。
百聞は一見にしかずとも言うように、見て真似ることは容易にできると思うからだ。
だが、視覚障害でなかったら三味線に出会うことも無かっただろう。人の何倍も悩んで努力して、ようやく自分の音が出せるようになった時に、更に数倍の喜びと感動を得るに違いないはずだ。
最近、このバチさばきが少しではあるが見えてきたようだ。
もちろん、「見えてきた」とは視力が回復したと言うわけではなくて、いわゆる、「心の目」のこと。イメージが浮かんできたと言うことである。
少しずつではあるが、自分のイメージする音に近づいてきたようにも思える。
どうやら、これまでは無駄な力と動きが多すぎたようだ。
バチは糸から離す必要がほとんどないように思える。
これまでは、強く打たなければ、大きく振らなければという思いが空回りして、バチをこねていた感じだ。
打ち込みの方向も大分ずれていたように思う。
バチの微妙な動きや力加減、角度で三味線の音の違いを少しずつではあるが実感できるようになった。
三味線を弾いていて、「この音だ。この感覚だ」と思う時がある。だが次の瞬間、またいつもの悪い音に戻っている。
今日、いい感覚をつかんだと思っていても、明日になると、その感覚を身体が忘れているといった繰り返しという堂々巡りの日々が続く。
三味線をやっている人の右手小指に「バチだこ」というものができる。
捕り物帳などで、「女の小指を見たか。バチだこがあった。ありゃー、三味線の師匠だぜ…」などという場面が時々出てくる。
バチを薬指と小指で挟んで持つために、バチの角があたってできるのだが、当初は、これがずいぶん痛いのだ。
お師匠さんみたいに、毎日のようにバチを持っていれば固まってしまうからさほど痛くも無いのだが、何週間ぶり、時には数ヶ月ぶりにバチを持つと痛くてたまらない。
私の場合は先にも書いたように余分な力や動きが多いためにすれてしまうのだろうが、時には血がにじむこともあるようで、家人から「指 どうしたがけ。血が出とっぜ」と言われて、はじめて気づくこともある。
バチだこが固まるまでには約1ヶ月かかるのだが、発表会などが控えていると稽古を休むわけにもいかない。
プロの演奏家でさえも、1日休むと勘を取り戻すのに三日はかかるという。
型さえ定まっていない私だから、せめて発表会までの1ヶ月間はバチを持つ手を止められない。
正に血のにじむような想いを実践している。
また、左手の人差し指と薬指の先が固くなる。ギターなどの他の弦楽器でも同じではなかろうか。
糸を押さえたり弾いたりするからで仕方のない現象だが、鍼灸施術時に若干の支障がある。
鍼を入れる時の微妙な感覚や、患者さんのツボを探るときに皮膚上の反応が伝わりにくくなるからだ。
また、患者さんにも、「硬い感じ」で不快感を与えていると思うといささか心苦しくもあるのだが…
津軽三味線は通常の三味線に比べて全体に大きくて、がっしりした作りで重くできている。また、バチ も重いものを持つ。
だからこそ、ダイナミックで迫力のある音を出すことができる。
太棹とも言われ、竿は大人の手首ほどはある。太鼓も一回り大きくて合成皮が張ってある。
以前は猫の一枚皮が上等品とされていたが、昨今の自然保護や動物愛護の高まりで、今では、ほとんどが合成皮を使用しているのではなかろうか。
「後日、専門店に確認したところ、津軽三味線では通常は犬皮が使われているとのことでした。」
この皮がよく破れるのだ。私の場合は、稽古不足で三味線を風にあてずにケースに長期間しまいこんだままにしている事が最大の原因だと考えられる。
思い返してみても、2年に一度は皮を張り替えている。単に趣味として楽しんでいる者にとっては、これに有する出費は大きい。
稽古でケースの蓋を開ける度に、真っ先に、そして恐る恐る太古に触れてみる。
皮が破れていないことを確認し、ほっと胸をなでおろす。
不幸にも大きく口を開いた皮を見つけたとき、正直言って背筋に寒気を覚える。
出費が気にかかるというのもあるが、大きく開いた口は、まるで破れちょうちんのように、稽古をしなかった私をあざ笑っているように見えるからだ。
「三筋の糸」とも言われるように、手前から一の糸、二の糸、三の糸と並んでいる。素材は絹糸である。
太棹では、一の糸がやたらと太くて直径2ミリ?タコ糸のようなものを使う。三の糸が一番細いわけだが、すぐに切れてしまうため通常はナイロン糸を使っている。
したがって、頻繁に切れるのが真ん中の二の糸である。
普段それほど稽古をしない私でも、月に一度、毎日たたいていると1週間で切れる場合もある。
糸が切れると、「糸巻き」の小さな糸穴に新しい糸を通して張り替える必要があるのだが、見えない私にも、それができる。
指先で糸穴を探り当てておいて、そこに新しい糸をすうっと通す。
だが、これとて最初からできたわけではない。点字の触読と同様で、何度も繰り返しているうちに糸穴がおぼろげながらも指先に見えてくるようになるのである。
周囲の人たちは、この一連の動作を見て、いつも驚いている様子だ。
「おっちゃん、おまんな見えんがに、上手に通すなぁ。指先に眼がついとるようなもんやなぁ。老眼のおらっちゃより、よっぽどましやわ……」
この時ばかりは、暗闇でも布団の中でも点字を読むことのできる盲人の鋭敏な指先の感覚を誇らしげに思う。